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学園報より

その時々の事象に対する学園としての見解(メッセージ)を、学内の機関紙等から抜粋し、お知らせするものです。
以下の記事から選択してください。

「学びの連続性と教育連携」 〜隔週6日制と授業の創造〜 (平成22年12月14日発行 学園時報 第211号 より)
灯(ともしび) 〜愛と絆〜 (平成18年12月11日発行 学園時報 第195号 より)

「学びの連続性と教育連携」 〜隔週6日制と授業の創造〜

本学園では、平成22年4月から新学習指導要領の改訂による学力保障、進路保障等の観点に基づき週5日制から隔週6日制へ移行致しました。既に各校(園)では、前年度から新学習指導要領の完全移行に伴う移行措置として、新教科書の採択のほか、新教育課程の編成を行い、授業力をさらに向上すべく先行実施をしてきました。

また、学習指導要領の改訂と隔週6日制による年間授業時数の大幅増に加えて、授業の質を高めることと土曜学習の内容と方法について再検討をしてきました。

とりわけ、新学習指導要領では、わが国の国際学力比較調査の結果が不振であったため、それを回復すべく、基礎・基本の習得とそれを踏まえた「思考力・判断力・表現力」といったPISA型の学習活動を積極的に推奨しています。

PISA型の授業は、例えば協同学習を推進したり、社会生活に必要な統計的図表・地図・説明図や映像メディアなどの教材を利用したりして、論理的表現力や批判的思考力を育成するものです。このようなPISA型の授業デザインをはじめ、土曜日を活用した「外遊びデー」(幼)の実施や通常の50分授業とは相対的に独立した形での70分授業、特化された教科教育の実施のほか、創造的な行事を新たに企画・実行し、学園全体の教育活動はより豊かに展開されています。

生徒・児童・園児たちが日中の大半を学校で過ごし、その大部分を授業が占めるなかで、学園綱領の「人間たれ」にふさわしい教養と人格を形成することが喫緊の要事になっています。

― 総 合 学 園 と し て の 学 校 間 連 携 ―

幼稚園から大学まで設置されている総合学園としての利点に立脚して、暁学園では校種間の教育連携を講じた「学びの連続性(階梯)」を重視しています。幼稚園から円滑に小学校へと移行するために教育課程の整合性を確保することや小学校と中学校が連携することによって、教科教育や生活指導等の系統化を図っています。また3年制高校と中学校・高等学校(6年制)が、横の連携を強めて、補習授業や特設授業の相互乗り入れやクラブ活動、行事など、それぞれの学校の実態に即した積極的な教育活動を展開しています。

学校間教育連携は、何よりも、教職員が所属校だけでなく、高大連携を含めた学園の「総合化」という立場から、異校種の教育内容や教育活動を理解することが必要です。そういう観点で、学園では管理職の合同会議を定期に開催し、教職員が異校種間の公開授業を参観することや教科間の合同教科会議を開催することによって、授業力を高めるための積極的な取り組みが実施されています。

教科外活動と同様に、教科(授業)で何を教えるかは、当該校の集団的英知を結集して、予め年間計画に組み入れて構造化していますが、幼稚園から高等学校までの各階梯の独自性と連続性に着目して、スパイラル(反復)、発展と抽象化、深化と多様性などを踏まえた授業の集積と累積を精選し、教育課程に反映できることは本学園の優れた特質です。校種を越えた授業を参観すると、「学力」というものが長期的な見通しのうえに成りたつ地道な取り組みであることが如実に理解できます。目先の出来、不出来にとらわれず、「人間たれ」という大本を見据えて、将来を方向づける確かな学力を形成することが求められています。どのようなシラバスであれ、教育という営みは、最終的には生徒・児童・幼児を介してしか自己完結ができません。また、教育の結果は、子どもたちの内面の育ちに収斂されてきますので、短期的にはその成果は顕在化しにくいものです。だからこそ、家庭や学校、地域における人的・物的な教育環境を整える努力を一方で絶えず進めながら、成果主義に走らず、着実に推進させる必要があります。

誤報と情報過多に流されやすい昨今の教育状況に振り回されないで、本学園は学園綱領のもと、国民の負託に応えられる教育活動を創造するために、教育的ビジョンや教育目標と成果、学力と進路保障を常に検証しつつ、強固な学校間教育連携と開かれた学校としての幾多の責務を果たす決意をし、新たに取り組んでまいります。

(平成22年12月14日発行 学園時報 第211号 より)

 

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灯(ともしび)

学校だけは安全な場所であるという神話はどこへ行ってしまったのだろうか。 過去に、学校の中で「お葬式ごっこ」が行われ、その標的となった子どもが犠牲になった。他にも「簀巻き事件」や「金銭強要事件」の事例が大きく報道されたことは、私たちの記憶から消え失せるほど遠い話ではないし、大切な教訓として心に銘記されなければならない問題であると思う。昨今、全国各地の学校で発生している「いじめ」問題の事例が連日報道されているが、教訓として受け止められたはずの問題が今日まで大きく解消されず、今なおその様相は変わっていないと思わざるを得ない。

社会的集団を形成していれば、子ども社会、大人社会を問わず、「いじめ」と類推されるものは少なからず存在する。ただ、表面化されることが少なく見えにくい性質を帯びているだけである。いじめられる側といじめる側から見たとき、いじめられる側がもしその事実を両親や教師に訴えると後の仕返しが倍加するのではないかと恐れ誰にも語らないし、他方いじめる側は加害者として特定されることを心配し、徐々に集団化されていくから見えにくいのである。集団化の特徴は、仮に10人が1人をいじめたとするならば、その罪意識は10分の1となる。したがって、「自分は傍に居合わせただけ」とか「顔を見て笑っただけ」とか「ちょっとからかっただけ」と済ますことができる。特に誰かがひどく悪いことをしたとは言いがたい事実を作り上げてしまうのである。さらに、最近ではパソコンや携帯電話のメールを使い「うざい」とか「きもい」などの表現で他人に嫌がらせをする事例が増えつつある。メールの場合は対面することなく、しかも匿名での嫌がらせである。これらが「いじめ」を見えにくくしていると言える所以である。しかし、いじめられる側は1人にしてみればちょっとしたことでも、10人分の圧力を受け止めるのであるから精神的苦痛は計り知れないものがある。しかも加害者の数が増えれば増えるほど被害者はますます孤立していき事態は深刻化するのである。スウェーデンの例であるが、子ども時代に「いじめ」をした人の60%が20歳までに何らかの犯罪を犯しているという調査結果が出されている。これは子ども時代に希薄な罪意識が醸成され、青年期になっても犯罪を犯罪として自覚化されないことを物語っている。

昨今、私たちの生活テンポは速く、複雑なものになっているからか、人と人がお互いの良さを見出し認め合うことが少なくなってきているような気がする。 “モーニング インスピレーション”という言葉がある。アメリカの小学校の学級担任の先生は、朝のホームルームの時間は、子どもたちの顔色からその日の子どもたちの健康状態や精神状況を見抜く時間であるという話を聞いたことがある。大人には子どもたちの表面のみならず内面まで深く洞察することが求められている。家庭において家族揃って食事をすることが望ましいとよく言われるが、ただ談笑するだけではなく、家族の構成員の誰かがいつもの表情と違えば、家族の誰かがその異変に気づくものである。このように、学校でも家庭でも、保護下にある子どもたちの様子をよく見守り、子どもたちの発しているシグナルを見落としてはいけない。松尾芭蕉の句に「よく見れば なずな花咲く 垣根かな」というのがある。子どもたちの個性や優れた特性を見出すのも、このような大人と子どもたちとの深い関わりの中からであるだろう。

子どもの保護者から「いじめ」についての相談があった場合、相談を受けた教員が一人で対応することがよくある。前述したように、「いじめ」は集団的現象であり見えにくいことが多いから、その時点では大したことはない思ってしまうことがあるかもしれない。ところが水面下ではかなり深く進行してしまっているケースがある。「いじめ」が集団的で表面化しないことが一般的であると考えるのであれば、その対応も教師集団として、あるいは保護者集団の協力を得ながら対応すべきと考える。家庭においては、同級生の家庭や同じクラスの家庭と連絡を取り合う中で、クラスや学校での子どもの様子を把握できるかもしれない。その情報と教師集団の持ち得る情報を交差させながら、事態を正確に捉え、適切な対応策を打ち立てるべきである。同時に、日頃のクラスづくりの中で、子どもたち自身が「私たちのクラスでは、学校では、人をいじめる人を出しません」とか「人をいじめる人がいたら全員で解決します」といったような雰囲気のあるクラス経営や学校経営も一例になるかもしれない。

社会経験が乏しくなってきた近年、人間関係、対人関係で悩む大人が多くなってきている。子どもの社会においても、昭和の時代と比べ兄弟姉妹の数も少なくなり、家族の中でさえ人間関係を学ぶ機会が少なくなってきており、大人社会以上に深刻であるかもしれない。したがって、「誰の足も踏まない。誰にも踏ませない」ことを徹底して教える必要があると思う。踏まれた足は特段に痛いものだ。反面、他人の足を踏んだ人はさほど感じないものだ。この場合の「足」とは、言うまでもなく個人の「存在」そのものを指す。足を踏むのが人間であれば、踏ませないようにするのも人間しかいないはずである。人間の尊厳についてあらためて教育の原点を考えてみたいものだ。人生の灯をいかに美しく灯すか、そして自己から発するその炎によって、どれほど美しく周囲を照らすことができるのかを教えることが教育の営みであり、学園綱領「人間たれ」が希求するところである。

(平成18年12月11日発行 学園時報 第195号 より)

 

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