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史蹟 萱生城跡

史蹟 萱生城跡「髪(け)のびの井戸」のいわれは こちら です。

目 次

一、 序
二、 北伊勢四十八家
三、 六角義賢の北伊勢侵攻
四、 千種城のクーデター
五、 織田信長の伊勢征圧
六、 萱生城、落城
七、 結 語

一 序

萱生(加用)という所は、ふるくは訓覇(くるべ)郷に属し、粟・大豆・薪などを産物としましたが、この地を統治したのは、春日部家で、その拠城を萱生城といゝました。私たちは城というとすぐ、三層、五層の天守閣をそなえた後世の城郭を思いますが、それはむしろ天下が平和になってから強大な勢力をもった戦国大名が、城とともに都市を建設するようになった時期のもので、史上このような城を中心にして、殷賑をきわめた町を城下町といゝ、織田信長の築いた安土城とその周辺の町を最初としています。それまでの城は、敵に対する防備のため、天嶮を利用し、攻めるに難く、防ぐに易い地理上の要害を選んで築かれたものですから、だいたいが山上にある、いわゆる山城と称せられるものでした。

春日部氏が築いた萱生城もまた山城の一種ですから、嶮しい山や渡りにくい川を利用し、外敵の攻めるのを一目瞭然探知することの出来る処に築城されていました。「伊勢軍記」という古書にはこの城のことを、

此城ノ要害ハ、北ハ朝明ノ大河ヨリ下、セキ上ケ水ヲ湛ヘタル城辺ハ恰モ湖水ノ如ク滔々タリ。西南ハ嶮岨ノ山ナレバ中々人馬ノ通ル事難得、僅力東一方ハ平地ナレドモ、両方ハ深田ニテ而モ一騎打ノ細道ナリ。

とも、

西南ハ山続キナレドモ、谷深ク切レテ万仗岩角スルナリ。北ハ朝明ノ河 城ノ腰ヲ廻リテ水滔々トシテ浅深ヲ知ラズ。東一方ハ平地ナレドモ、深沢ニシテ馬ノ蹄ヲ労スル。

といっています。

しかし、城としては、きわめて小城で、周囲五町とも、二町真角だったとも書かれています。ここに城主の舘を中心として、一朝外敵の侵攻にあったときは、完璧な防禦の出来る準備が整えられていました。この城は戦国時代二回の攻撃を受けながら、二回ともよく防戦することが出来ましたが、結局、信長輩下唯一の戦略家だった滝川一益のため、兵糧攻で落城したのでした。いま、戦国動乱の世にあって、この城のたどったありさまをながめてみましょう。

ニ 北伊勢四十八家

室町時代末期の伊勢には、北畠・長野・関の三つの勢力があって伊勢三家と称せられていました。北畠家は多気の田丸、飯高の大河内、同じく坂内を三大将とし、木造、渡瀬、岩内、藤方などの一族を輩下として威を振い、安濃の長野家は雲林院、細野、分部、家所、草生などの豪族を配下とし、また関家は同族の亀山、神戸などのほか、北伊勢の羽津、赤堀、茂福、富田などの諸豪を幕下にして、武威をはっていました。しかし北伊勢には、この伊勢三家以外に、ふるくから千種家と春日部家があり、これに神戸家を加えて三家六人衆と総称します。南北両勢力を比較しますと、北伊勢の三家は、非常に微力でしたので、この地方には諸豪族がたくさん割拠して、たがいに隙を窺ったり、和睦したりして、自家の勢力の伸長をはかっていましたが、一応、あるものは関家を盟主とし、あるものは千種家を首班として、均衡をたもっていました。

この諸勢力は俗に北伊勢四十八家といわれましたが、河芸、三重、朝明、桑名、員弁の地方には八十有余の土豪が群立していました。この諸豪たちは決して孤立していたのでは安泰を望めませんので、おのおの血縁や地縁に結ばれて、共同防衛の策に出ましたから、大体三つの系統に分けて考えることが出来るようです。第一に員弁の梅戸高貫はその祖富田家資からつゞき、宇野砦の後藤氏や笠田砦の飯田、阿下喜砦の片山氏を統率していました。また、富田城主は当時は南部頼武でしたが、始めは、梅戸家と同祖富田家資から出ています。同じ南部家としては、大矢知城主南部経頼があり、地方の一勢力でありました。しかし、同じ富田氏を祖として、朝明、桑名から遠く員弁地方まで、同族の紐帯で固く結ばれて、覇を称したものは、萱生城主の春日部俊家で、その同族としては星河城の春日部若狭(員弁または桑名)、伊坂城主(朝明または桑名)の春日部太郎左衝門を筆頭に、多度城主小串伊豆守、猪飼城主小串詮通(または則道)、小山城主高井氏、溝野城主草薙出雲守(以上桑名地方)を与力として相当な勢力を保っていました。別に茂福城主朝倉下野守茂盛は、保々西村の城主朝倉備前守と同族ですが、保々中野城主赤堀藤太郎が羽津城主赤堀国虎(後に赤堀に築城)の三男で、これを与力としましたから、一つの結集勢力をなし、南部家と気脈を通じていたことは、地理上の関係から推察されます。

要するに、富田家資を祖とする梅戸、春日部、南部は、北勢の三大勢力の系譜を形作っていましたが、なかでも萱生の春日部氏がもっとも大きな権勢を保持していたようです。富田家資、詳しくは富田信士平家資といゝ、平家の一門でしたが、寿永年間に大内惟義のために殺害されましたので、一時富田城下の荘園は、院の御領として工藤祐経が管理したことがありますが、やがて元久頃(一二〇四)には、富田進士基度が居城し、後、南部頼武の領有するところとなりました。いわば富田の南部は富田家の総本家ともいうべき家柄ですのに、萱生の春日部氏の権勢が大きかったのは、その千種家との関係が強くものを言っていたからです。当時この南朝千種忠顕の血統を誇る名門の統治者は、千種常陸守忠治といゝ、鈴鹿山脈の要衝を領し、遠く近江(滋賀県)の南部との交通路を扼して、北伊勢屈指の豪族でありましたが、その女は春日部俊家の内室となっていました。戦国時代の武将が婚姻政策によって相手を懐柔し、近隣征服を容易とすることは、常套手段ですがこのような関係は、この頃からにわかに頻繁に用いられるようになります。

永禄の始めごろ(一五五八)、千種城主千種忠治は、北伊勢諸豪を平定して、南方北畠家を征し、伊勢全土を統治しようという雄図を抱いて、五百余騎の軍勢で萱生城を攻撃しました。この軍団の総指揮は萩沢備前守で、平津川原に陣をしき、山城の細道から攻めたて、また川を越えて川島の社をやいて兵を集めていました。しかし、城主春日部俊家は城の周辺所々に柵を結び、堀をほり、朝明川の水を流して本城をかこんで防戦し、また東方では広永城主横瀬勝五郎や、高井民部少輔、渡部掃部などという家臣たちが、よく応戦していますので、千種軍はなかなか実戦を開始することさえ出来ず、空しく時日をついやすばかりでした。やがてこの事情を聞いた北畠具教は千種勢鎮圧のため、大軍を北伊勢に派遣するということでしたので、千種忠治は、大井田方松院の南果和尚を仲介として、和談を成立させました。そのときの条件が忠治の娘を春日部俊家の内室にすることでしたが、ひとたび両家の婚姻が実現すると、深い交りが結ばれ、萱生城主としても、ますます北伊勢の重鎮と見なされるようになりました。

三 六角義賢の北伊勢侵攻

近江は、鎌倉時代初頭から佐々木定綱の所領でしたが、後この一門は二分して 江北は佐々木京極、江南は佐々木六角の両家が統治するようになりました。室町時代にはいると、両家の権勢は大いに振い、六角氏は後に管領家、京極氏は四職の家柄として、幕府の要職を占める名門となりました。ことに六角家は定頼が永正八年(一五一一)幕府の管領となり、将軍の継嗣争いに介入するようになるとその勢力は急に増大し、四隣に武威をはろうとし伊勢地方にも侵略を開始して、各地をおかし、北畠晴具と争ってその領地を奪ったこともあります。このように江南に大勢力が結成されると、その影響をもっとも強く受けるのは北伊勢であるはずです。定頼の子六角義賢が、三重・朝明方面に大挙襲来しましたのは弘治二年(一五五六)でした。義賢の家臣小倉三河守は手兵三千をひきいて、上津畑越に鈴鹿山脈を越え、宿野川原に陣を布いて、千種城攻撃にかゝりました。

当時の千種城主は、千種常陸守忠治といゝ、軍略に秀いでた武将で前述しましたように萱生城主内室の父にあたります。忠治は敵の虚をつかんとして、家臣萩沢備前守に命じ、宿野川原に夜襲をかけました。長途の軍旅に疲労していた近江軍団は応戦の遑もなく、壊走し、多数の犠牲者を遺して本陣にひきあげました。戦国の世、軍兵の大切なことをよく知っている義賢は、千種城に使者をさしむけて和をはかり、忠治に世嗣のないのを幸とし、六角家の執権であった後藤播磨守の三男縫殿助というのをその名跡として、和談を成立させました。千種太郎左衛門忠秀(忠基ともあり)というのがこの人です。これで北伊勢地方に於ける六角家の勢威は磐石の重きをなすようになり、勢陽軍記には、

此時千種家六角家に属すれば、北勢一帯は近江佐々木の臣従たるが如き観あり。

と述べています。この優位を利用して六角家の侵略は日をおってはげしく、翌年にはその命を受けて小倉三河守が柿城を攻めてこれをおとしいれましたので、その盟主神戸友盛はこれが奮還を企て、軍をおこしましたところ、家人佐藤某が三河守と内通して、神戸城に誘導するという大事が出来ました。茂福城の朝倉氏と羽津城の赤堀氏との反目から、同族関氏と確執していた神戸友盛は、長野城の長野輝伯に来援を乞い、ようやく自分の城をとりかえすことが出来ました。敗北を喫して小倉三河守は近江に帰還しましたが、市原の土一揆で土民のために惨めな最期を遂げてしまいました。しかし小倉三河守が北伊勢に投じた波紋はきわめて大きく、これを契機として、北伊勢諸豪族と近江江南諸将との間に深い関係が結ばれるようになります。まず、千種家は後藤家と婚姻関係を結んで全く六角家に臣従し、梅戸家は六角義賢の四男を嗣子に迎え、萱生城の春日部家はその五男を迎えて春日部越前守と称しました。

四 千種城のクーデター

後藤忠秀を嗣子として千種城に迎えて後、城主忠治には三郎左衛門忠基という実子が生れ、継子との間に深い隙が出来るようになりました。そして、永禄六年(一五六三)両者の間に紛争が起ります。この年三月忠治が実子をともなって音羽山へ猟遊している留守中、忠秀は城内を全く占領し、養父の入城を拒みましたので、忠治はいたしかたなく、潤田の豪族大久保城之助に命じてこの暴挙を六角義賢につげて来援を依頼させました。ちょっと考えると、非常に矛盾した話のようですが、この時六角家と後藤家の間は、決して平穏ではなかったのです。

千種忠秀の兄後藤但馬守忠勝は、父播唐守以来二代にわたって六角家の執事をつとめ、権をほしいままにして、やゝ功に誇るところがありましたので、各方面から反感をかっていました。ことに義賢の子六角義弼はついに家臣をして、後藤父子を殺害させてしまいましたので、後藤の一味は結束して反抗し、楢崎某を首領として兵をおこし、六角家の拠城観音寺城を攻撃にかゝりました。六角父子はやむなく城を脱出し、蒲生賢秀(氏郷の父)の拠る日野城に遁れました。賢秀の室は後藤忠勝の姉であるのにかゝわらず、彼はよく六角父子を援け、死力をつくして後藤の徒と戦い、江北の雄、浅井長政(信長の妹お市の夫)の来襲をも撃退することが出来ました。やがて六角家と後藤の徒との間には和義が成立しますが、この紛争は、たちまち千種家の内訌に影響し、忠治の乞いに応じて、六角家の軍兵五千有余が忠秀の拠る千種城に襲いかゝったのです。近江軍勢の来援に気をよくした千種家の同族は、忠秀撃滅のため、大挙攻めよせましたが、なかでも萱生城主春日部俊家は、近隣の武将を誘って潤田音羽に陣を布いて、千種城に猛攻を加えました。たいへん不利な立場におかれて忠秀は狼狙し、三重・朝明両郡の武将たちに檄をとばして救援を求めましたけれども、誰一人これに応ずるものがなく、御舘(市内三重町)薬王子の山本豊前守など、かえって忠秀の不幸と近江の兄忠勝の不忠をなじって使者を拒むという状態でした。弧軍奮闘空しく千種城は開城し、忠秀は左眼を傷き、福村で一族とともに自害して果てゝしまいました。

かくて、千種忠治は再び千種城主となり、実子忠基を以て、その名跡と定めました。そして、春日部家との親交は倍加し、ともに六角家の与党として、北伊勢の重鎮となりました。

五 織田信長の伊勢征圧

このころ織田信長の出現は近畿の情勢を一変してしまいました。宿敵今川義元を破った彼は翌永禄四年(一五六一)から美濃一帯の征討に着手し永禄七年(一五六四)には大体平定を終って、拠点を完璧にし、大敵甲斐の武田信玄には勝頼に養女を婚して深交を結び、江北小谷城主浅井長政には妹お市を配して情誼を厚くしました。そして、江南の六角家を攻撃し、これに組する諸将をやつぎばやに降して、永禄八年(一五六五)には江南十八城を抜き六角義賢を遠く甲賀に遁奔させてしまいました。この際江南に対する信長の政策が江北に対するそれとことなり、武力制圧にあるとすれば完全な征服を期するためにはその余勢の蠢動する北伊勢諸城を見のがすはずがありません。早急にこの地を降して、年来の宿望である上洛を断行し、天下布武の理想を実現しなければなりません。

信長の伊勢侵攻は三期に渉って行われました。すなわち永禄十年、永禄十一年、永禄十二年と連年軍をすすめました。まず永禄十年春信長の将滝川一益が長島、桑名、大義、多度を降した余勢をかって桑名員弁の二郎を席捲しました。北伊勢に大きな足跡を残した滝川一益は近江甲賀郡大原の人ではじめ六角家の被官でありましたが、のち尾張にきて織田信長に仕えるようになりました。すでに彼は永禄三年(一五六〇)信長に対して「北伊勢の桑名地方は美濃との国境にあたり、ややもすれば患をなす所だから、桑名長島の地を得てここに本拠をおいて北畠や関の一党を防ごうと思う」といって、その諒解のもとに長島城主服部友貞の許に来りその資金によって蟹江城を構築し、やがて友貞を放逐してしまったと或る資料に書かれています。かくて桑名地方に相当な勢力を確立し得た一益は、朝明、三重、鈴鹿、河曲、方面の征討を信長にすすめたようです。ここに於て同年八月信長みずからの出馬となりました。総見記卷五には

永禄十年丁卯秋八月、信長公美濃尾張両国ノ人数ヲ催シ、濃州岐阜ヲ御出馬有テ、勢州桑名へ乱入有、在々所々ヲ放火シ給ヒ甚ダ猛威ヲ振ヒ給フ。惣シテ信長公ハ、イツトテモ他国ノ働キ宿入リノ時ニハ、必ズ火ヲ放ッテ敵ノ気ヲ奪ヒ給フ事、定リタル軍例ナリ。

とあり、この地方の戦禍のほどがよく窺えるのであります。

このとき落城したと思われる諸城には、多度城、広永城、縄生城、小向城などを数えることが出来、また富田の南部家や萱生の春日部家、楠城などをおとし入れ、楠十郎貞孝を案内として神戸城にせまり、その一党高岡城の山路正国を攻め、一方平田城の平田賢元に降伏を勧告するほどでありましたが、しかしまだ徹底的な鉄槌を下すまでにはいたっていません。それは、たまたま美濃西方三人衆と称せられた稲葉、伊勢、氏家の徒党が武田信玄と内通して、その背後をつかんとする気配があるとの情報が聞こえたので、信長は滝川一益を伊勢の押えとして桑名城におき、急いで美濃に引きあげたからです。

つづいて翌永禄十一年二月には信長は、ふたたび北伊勢に出陣しました。その目的は北伊勢の重鎮神戸城の征圧にあり、これに従った諸豪は北方の諸侍、千種家、楠家、赤掘家などで、このとき、織田信孝を神戸の名跡とすることによって、対神戸政策は落着し、ついで安濃津城の工藤家を降して織田信包を城主とし、ここに、いわゆる北伊勢八郡(安濃以北に八郡あった)を手中におさめましたから、伊勢に於ける信長勢力は磐石の強みを見せ、南勢の名門北畠家にせまる観がありました。同年九月足利義昭を奉じて上洛した信長に従ったものは、美濃、尾張の諸侍とともに、伊勢の滝川勢と関一族などであったと勢州兵乱記に記しているのを以て見ても、伊勢北方は全く信長に降伏していたことが判ります。そして、信長第三回目の征勢軍は翌年北畠具教を大河内城に降して、織田信雄を世継とすることで局を結びます。

いま、永禄十二年信長征庄後の伊勢の情勢を改めて整理しますと、まず長島城、蟹江城には滝川一益がいて北伊勢諸豪を統率し、神戸城には信長三男信孝がいて関一族の盟主となり、長野家は弟信包が入ってその一統をおさえ、北畠家は二男信雄が北畠信意の養子として事実上の総師となりましたから伊勢全土は、信長の旗下となるにいたりました。

六 萱生城 落城

永禄十二年から八年たった天正六年には萱生城が滝川一益の攻撃を受けて陥ったと伊勢軍記に述べ

朝明郡萱生城主春日部大膳俊家ハ近江国佐々木右京太夫義賢ノ幕下ニテ、千種常陸介が与力ナリ、千種滅亡以後信長公ノ下知二順フ所ニ、滝川左近北勢ヲ一円二押領セン為メ大膳我ガ下知二不順、江州義賢卜一味ノ由言上シ信長公ノ下知ヲ請テ、加用ヲ欲討伐ト

といっていますが、これは年代的におかしい。元来、伊勢軍記にしても、北伊勢軍記にしてもその他、地方の俗史は年代に関しては全く信用出来ません。六角義賢が信長のために亡ぼされたのは、永禄十二翌、元亀元(一五七〇)年ですからこの時には六角家は滅んでいますが、しかしいまかりにこの年代をとるとしますと、義賢の死亡年代は天正六年ですから、没落後の義賢が再起をはかって、春日部家と内通していたとも考えられます。また千種滅亡以後とありますが、千種城落城の年代も諸書まちまちで、早急に決しかねますが、千種家系図には、永禄六年忠秀自害の後、実子忠基が家督となり、(本稿四の項参照)織田信長の配下となり、やがて天正十二年、織田信雄と豊臣秀吉の戦いに美濃加賀井城で戦死し、以後千種城は荒廃したとなっています。この説を信用するならば、萱生落城の当時は千種忠基は在世であって、義兄にあたる(本稿二の項参照)春日部俊家に加勢しなかったことになることは後述の通りです。

さて一益は俊家を長島へ呼び出し、いつわって殺そうと使者を出しましたが、俊家はよくこれを察して病気だといって応じません。その上、自分の与力を集めて防戦の準備を整え始めました。城に集まったものは、高井民部少輔(小山城主)小串次郎左ヱ門(猪飼城主)赤堀藤五郎(中野城主)草薙出雲守(溝野城主)などの同族や大矢知遠江守、海老藤七郎、太田幸左衛門、水越伝右衛門などの武将が、近くの地下人などを集めて五百余騎が城にこもりました。これに対して滝川一益は三千余騎の軍兵を以て三方より城の攻撃にかかりましたのは八月二日でした。しかし城中からは、当時の新兵器である鉄砲を以て岩間からおそったり、坂上から大石を落下させたり、ゲリラ戦術に出ましたから容易に城を抜くことが出来ません。こゝに於て一益は持久戦をとりました。萱生城正面に本陣を作り時々鉄砲や矢軍で攻撃を加えながら、城中兵糧の尽きるのを待つことにしました。城といっても既述の如く小城ですから、城内はたちまち食糧の欠乏をきたし九月も中ばをすぎこのままでは開城のほかない情勢になると籠城の将兵の足並は崩れだし、草薙、小串、海老の三将は城主に内密で三百七十三人の兵をひきいて大手門から千代田川原へ打って出ましたのは九月二十一日、月まだない宵の口でした。数ある信長の武将のなかで、暗年の秀吉までは及ばないとしても知謀軍略ともに十指の中にかぞえることの出来る一益ですから、これくらいの夜襲に対する構えのないはずはありません。夜内の軍は分部、山県、白井などの敵軍に包囲攻撃を受けて、もろくも壊滅し、手傷をおった小串は西村伝藏という部下にたすけられて猪飼城にひき上げましたが翌日死亡し、草薙は討死、海老、赤堀などは笠印をかなぐり捨て夜に紛れて落ちのびました。夜半すぎて、はじめてこの敗戦を知った春日部俊家は城の運命を感得し、太田幸左衛門を使者として一益に城下の盟をして助命を許されました。

大膳親子三人鎧ヲ脱ギ、弓矢ヲ帯ス歩行ニテ、城ヲ出テ、若干ノ敵ニ面ヲサラシケル

といい、その後、俊家の行方はヨウとして判らなくなりました。ここに於て、萱生城は一益の手に帰し、この地方一帯はこの輩下に属したのです。しかし一益の北伊勢統治は永く続きませんから、やがてこの城も荒廃のまま放置されたに違いありません。それは、全国統治の大勢力が出現し、地方には藩体制が強化されると、このような小土豪的な勢力は問題でなくなります。各地に残る城跡は、在りし日の武将の夢を物語るにすぎません。

七 結 語

戦いに破れた二本松城主畠山義継が伊達輝宗の宮ノ森陣屋に多数の供の者をつれて鄭重な詫び言に来ました。帰りの玄間口で急に輝宗に抜身をぎし、騒ぐ門内の武士たちをしり目に二本松さして引き上げて行く。急を聞いて鷹野から、かけつけた伊達政宗が高田まで来たときは、義継の領内へ入る川を渡るところでした。一行を見やると一人は楯を持ち、一人は弓を持ち、他は全部抜刀で、総勢五十余人、真中に義継が輝宗をとらえ、悠々と渡って行くのが見えました。政宗は焦慮しました。敵将に捕らえられた父の姿を目のあたりに見て、とるべき処置に窮しました。しかし彼の胸に冷酷な決心が出来るまでには、そう長い時間が必要ではありませんでした。

「打て」

血の魂のような絶叫でした。政宗の軍からあらんかぎりの鉄砲が、一時に火を噴きました。狼姐した義継は砲弾のなかで、輝宗をつヾけざまに刺し、死体に腰かけ腹かき切ってはてたのです。政宗は父の無惨な死をじっと見ていました政宗十九才のことです。戦国の世とはこういうものです。敵を倒し家を興すためには最愛の肉身も百年の知己も犠牲にしなければなりませんし、また人を信じたのでは、たちまち身の破滅を来たす場合がありますから、一瞬の隙も許されるものではないのです。同族の千種家が春日部家の危機に対して救援の軍をかさなかったとしても決してこれを責めることは出来ません。戦乱の世に平時の倫理は通用しません。一益の招きに萱生城主が応じなかったことはまことに賢明でしたが、結局は大勢力の前に粉砕される運命にあり、この時代には並大抵の知謀では武将としてのりきることは出来なかったのでしょう。

関が原役の戦功によって黒田長政が筑前一国五十二万三千石に封ぜられたとき、父黒田如水にその感激を

「内部様は拙者の手をとり、この勝利、ひとえに御辺のおかげである。子々孫々まで疎略には存じませぬと三度まで仰せられておしいたヾかれました」

と得意気に報告しました。
すると如水は不興気に

「フーン、内部は左手をいただいたのか、右手をいただいたのか」

と不思議な問を発しました。

「右手だったと思います」

如水は、すかさず大声で叱りつけました。

「その時そなたの左手は何をしていたのだ」

わずか五十余万石の感激に酔って家康を打つ好機をのがすようでは今後黒田家が天下に号令出来る日は到来しないという謎がかくされています。戦国武将は常にこの心がけを必要としたのです。北伊勢にあった多数の土豪たちはこのような気概なく、みな早く滅んでいったのです。父を殺し主君の隙をねらうといえば人道に反するように思いますが、現在だって結局、合法的とか合理的とか政治才能とか、実行力とか、手腕とか、まことらしい言をならべて、知己をあざむき、恩義をそむき、権力におもねっている姿は戦国の世とちっともかわっていないようです。素朴で赤裸々で解放的なだけ戦国の方が好感がもてるではありませんか。

(一九六三、六、三〇)

寄稿者(山田 教雄)略歴

四日市市智積町の西勝寺住職、昭和26年学校法人暁学園短期大学および暁高等学校の講師(日本史・東洋史)として着任され、昭和32年から暁高等学校専任教諭、昭和44年から暁短期大学助教授となり、昭和48年定年退職、平成元年死去(享年82歳)

■ 引用 記事は、暁学園PTA連合会報 三十六号掲載(昭和三十七年十二月二十二日) 同 三十七号掲載(昭和三十八年七月十八日)からの抜粋です。尚、掲載にあたり内容を一部編集してある場合があります。

 

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