▼サブメニュー

創立者 宗村佐信について

学園創立者・初代理事長 宗村 佐信 (むねむら すけのぶ)
<1904-1975 > 四日市市出身 実業家

暁学園は、1946年(昭和21年)に全国有数の繊維関連企業だった平田紡績株式会社、平田漁網製造株式会社の社長、宗村佐信氏によって創立されました。宗村社長の下、同社は戦後、日本で初めて合成繊維ナイロン製漁網の製品化に成功し、漁網シェアは全国トップを占め、アフリカ等の海外にも事業進出しました。丈夫な漁網の普及は日本の漁獲高向上と食糧事情改善に大きく寄与しました。

高校時代から慶應義塾を創設した福澤諭吉を尊敬し、私学教育に強い関心があった宗村社長は、若者、特に女性の教育を高めることにより豊かで平和な社会を実現すべきと考え、暁学園を創設し、初代理事長に就任しました。私財を投じて四日市市天カ須賀の自社敷地内で校舎を用意すると、そこで県下初の私立女子専門学校となる「暁女子専門学校」を開校しました。

学園のみならず、日本の私学界、教育界、産業界、芸術文化界、スポーツ界の振興に、その半生と私財を奉じた初代理事長が他界してすでに40年以上が経ちますが、その功績はあらゆる形で今も私たちの身近に生き続けています。

マッカーサ杯争奪第5回軟式庭球全国大会に優勝した三重県選手団
(前列左から2人目が宗村佐信理事長)

学園の沿革

1946年財団法人 暁学園設立 初代理事長 宗村佐信就任
暁幼稚園と暁女子専門学校が開設
1948年暁小学校、暁中学校 開校 学園歌制定
1949年暁高等学校(全日制・定時制)開校
1950年暁学園短期大学 開校  暁学園PTA連合会結成
学園綱領「人間たれ」制定
1951年暁高等学校(全日制)男子募集停止 学園旗制定
1953年高松宮殿下御視察
1959年伊勢湾台風襲来 学園に甚大な被害
1963年暁小学校 蒔田校舎へ移転
1965年短大、高校、中学、本部 萱生新校舎へ移転
1975年第二代理事長に宗村完治就任
1978年第三代理事長に宗村南男就任
1979年暁学園体育館 完成   暁高等学校 定時制廃止
1983年暁中学校・高等学校(6年制)発足
1988年四日市大学 開学(経済学部)
1993年暁高等学校(3年制)共学制復活
1994年暁学園短期大学を四日市大学短期大学部に変更
1996年学園創立50周年記念事業 実施
1997年四日市大学 環境情報学部開設
2001年四日市大学 総合政策学部開設
2002年四日市大学短期大学部閉学
2007年四日市看護医療大学 開学
2011年四日市看護医療大学大学院 開設
2017年第4代理事長 丸山康人就任
2021年第5代理事長 喜岡渉就任
学園創立75周年を迎える

「暁の原点」

1946年6月20日、県内初の私立女子高等教育機関 暁女子専門学校を開校

第二次世界大戦終結直後の8月30日、ダグラス・マッカーサーは厚木飛行場に降り立ちました。マッカーサー率いるGHQは日本の教育の民主化も大きな改革の柱としていました。そんなパラダイムシフトを受け、即座に女子教育向上を目指し立ち上がったのは、戦前から全国有数の業績を誇った平田紡績の宗村佐信社長でした。吉田勝太郎四日市市長や女子学習院長だった芝田徹心先生らの協力で、翌年3月20日には県下初の私立女子高等教育機関となる、暁女子専門学校の設立趣意書が完成しました。平和で民主的な国家再興には、女性の教養教育によって社会的地位を向上させることが必須との趣旨を掲げ、6月20日、天カ須賀の同社敷地内に経済科、保健科、被服科の3学科からなる暁女子専門学校が開校しました。この後施行された婦人参政権と教育基本法の内容を先取りした趣意書からも、その先見性の高さが伺えます。この時、学園は暁幼稚園も開園し、近隣から多くの子どもたちが集いました。

 

「暁の創成期」

幻の「暁女子小学校」と「暁女子中学校」 創立まもなく学園綱領「人間たれ」を掲げる総合学園へ

創立から2年後、幼稚園に続く小学校と中学校を設置することになりました。学園方針が女子教育であったため、当初の認可申請は「暁女子小学校」と「暁女子中学校」を予定していました。しかし、その後施行された教育基本法第5条(男女共学)に基づき、急遽申請内容を改め、男女共学の暁小学校と暁中学校で申請し、1948年4月、両校が開校しました。

同年、高等学校設置の検討も開始され、翌年、男女共学、全日制と定時制の暁高等学校が開校しました。さらに、1950年には学制改革により暁女子専門学校は「暁学園短期大学」と改名されました。当時、東海地区で女子短大は、本学と金城学院、椙山女学園の3校だけでした。短期大学については、女性教育向上発展を念願とした暁女子専門学校の建学の趣旨を重んじ、女性のみを対象とする教育を継承しました。

このように幼稚園から短期大学までを擁する総合学園が完成すると、学園教育の根幹を成すべき綱領の制定を望む声が高まりました。奈良女子高等師範学校で教鞭をとり、初代学園長として招聘された五嶋孝吉先生が、候補の中から「人間たれ」を選定し、宗村佐信初代理事長の承認を受け、1950年10月、学園綱領「人間たれ」が掲げられました。この頃、今も大切に受け継がれるクローバーを象った校章や学園旗、学園歌なども続々と定められ、学園の伝統の基盤が完成していきました。

 

伊勢湾台風襲来と萱生への学園大移転プロジェクト

1959年、史上最強の伊勢湾台風が襲来しました。学園も高潮で少なからぬ被害を受けましたが、学園を愛する皆が一致団結して復旧作業に勤しみ、二週間で授業再開を果たしたと記録されています。1961年には完全復興祝いも兼ねた創立15周年記念祭が盛大に開催され、その際の感慨を秋田穣第二代学園長は学校新聞で書き残しています。ちょうどその頃、第一次ベビーブームを背景に、学園への入学志願者が急増していたため、広い校地での校舎建設が計画されました。1965年までに、小学校は蒔田に、中学校、高校、短大と学園本部は萱生城跡の用地に完成した新校舎に移転し、その後の発展に向けた布石が打たれました。

 

「暁の発展期」

80年代~宗村南男理事長の下、中高一貫6年制と四日市大学が誕生

1978年に就任した宗村南男理事長の下、学園は1980年代に二つの大きな発展的事業を成し遂げました。まずは1983年の暁中高6年制の発足です。暁中学校は開校当初から、男女問わず多くの生徒が四日市高校等へ進学していたため、高校までの六年制教育を導入することは長年の悲願でした。発足以来、大学進学実績はもちろん、人間的伸長においても暁の理念を深化させ、学校の評価を確立しています。

次に宗村南男理事長が手がけた更なる大事業は、四日市市からの要請を受け、三重県の助力も得て実現した四日市大学の開学でした。名古屋大学名誉教授の城島國弘先生を初代学長に招聘し、1988年に経済学部二学科で発足しました。全国初の公私協力方式による画期的な私立大学経営としても注目を集め、多彩で熱意あふれる教授陣が、授業、研究は勿論、様々な分野での地域社会貢献も積極的に展開し、評価をいただいています。

 

平成の英断~高等学校共学制復活と四日市看護医療大学の開学

時代は平成に入り、宗村南男理事長は先見の明をもって大きな経営的決断を下しました。1993(平成5)年の高等学校での共学化復活です。高等学校は共学で開校後、すぐに男子募集を停止し、長きにわたり、女子校として運営してきました。しかし、宗村南男理事長は不安の声もある中、少子化対策に先手を打ち、共学化に舵を切りました。教職員も奮闘し、今では進学実績でも部活動でも健闘する私立高校として評価を得ています。

大学部門では、医療の発達を背景に高度な看護人材が一層求められると見据え、2007(平成19)年、四日市市と協力し、四日市看護医療大学を開学しました。産業看護学の第一人者として知られる河野啓子先生を初代学長(現名誉学長)に招聘し、特色ある看護教育を追求する大学として誕生して以来、県内外の医療現場に多数の人材を輩出しています。

 

令和の結集~学園創立75周年を迎えて

教育をめぐる経営環境が一層厳しさを増す中、本学園は、令和3年、学園創立75周年を迎えました。学園教職員一同、学園綱領「人間たれ」の下、決意を新たに、創立者の願いと先人の教えを大切に受け継ぎながら、学園の総力を結集して果敢に挑戦を続けてまいります。